私(山本 憲一)は2011年3月11日14時46分、仙台市内のホテルの四階で東日本大震災に遭遇した。 東北大学の研究報告会だった。

すぐホテル外へ退避することになった。大半の車両は電動の立体駐車場に置かれていたため、その後一週間、停電から復旧するまで、ホテルから車両を出せなかった。

しかし私の車は運悪く、ホテル内の地上の駐車場にあり、地震後すぐにそこを出なければならなかった。15時頃だったと思う。三陸自動車道を利用するつもりで、国道45線を石巻に向かった。しかし地震のため封鎖されていたので、そのまま45号線を通って石巻に向う事にした。

多賀城市付近で突然、津波に遭遇した。上り車線(仙台方向)は渋滞し、下り(石巻方向)は比較的スムーズに走行していた。すると仙台港方面からの津波が道路に到来し、最初は小川が流れる程度だったが、2波目で全部の車が傍らに押し流された。私は咄嗟に自家用車を近くのタイヤ工場の駐車場の隅の流されにくい場所に止めた。それが私の車を操縦する最後となった。その後第3、4波が波高をあげながら押し寄せ、私の前を運転者が乗ったままの車両が次々と流されていった。中には二人の子供を抱き抱えた主婦が乗った車や、ルーフに人を乗せたまま流されて行く車もあった。私の車に次から次へと車が衝突した。車中の運転手は皆が茫然自失状態で座っていた様に記憶している。私も車を置いて逃げる行動をとらなかった。さらに水位が上がり、私の車も流され始めた。必死にハンドルを切ったり、ブレーキを踏んだが、もちろん応答はなかった。前を向いたり後ろを向いたりして流されながら、何かにぶつかって止まった。気がつくと私の車は先に沈んだ車の上で運転手側を上にして45度くらいに傾いて止まり、徐々に沈みつつあった。そのため、フロントウィンドウを通して見える水位も上昇していった。助手席のドアガラスはまるで水槽のようであった。

車室内の水量は少ないものの、とうとう水面が私の目線と同じくらいまでに至り、車内の計器盤の表示装置にありとあらゆる見たことのないマークが表示され、フロントガラスも割れ始めた。この時になってはじめて車両放棄を決心した。購入して一年そこそこの新車であり、水が去ったらまた運転して帰宅しようと考えていた。ところが開けたつもりでいた運転手側のドアガラスが少ししか空いてなく、窓ガラスをさらに開こうとしてもバッテリーが放電したのか、それ以上動かなくなってしまった。拳骨で叩いても、肘で押してもガラスは割れず、この時ばかりは死を覚悟した。もちろんドアも開くことができなかった。しかしこのまま死ぬわけも行かず、少し空いていた隙間に指を入れ、渾身の力をこめてドアガラスを折り曲げるようにして割った。これで助かったと思った。近くに浮かんでいたかばんと車のキーを持って車外に出た。周りにはルーフだけが水面に出ている2~3台の車両があり、その屋根を伝ってたまたまあった柿の木に登った。そこには女性の先客がいた。

私達の周りには、自動車の屋根にあがったまま凍えている運転手や、小屋の屋根に登ったままの人、店の庇に退避した親子などが不安な状態で残されていた。大津波を知らせる音声サイレンだけが空しく響き、木に登った私の上に容赦なくぼたん雪が降り注いだ。その時点では、片足が濡れていた程度で体力は十分であったが、念のためにかばんの中にあった当日の新聞紙を上着の下に入れ込んで寒さを凌いだ。日没までの2時間くらいの間、そのままでいた。水は引いたり戻したりを繰り返し、近くの小屋の内部からはSOSを思わせる壁を叩く音や水没した車両で救助を待つ運転者からは寒さを訴える声が続いたが、どうすることもできなかった。そろそろ暗くなった午後6時頃と思う。近くのタイヤ販売店の2階にいた店長と思われる方から店の二階に集まるよう呼び掛けが合った。そのまま夜を乗り切る気力もなく、私にとっては正に『渡りに船』であった。 意を決し、柿の木からその店までを濡れながら歩こうと、水に飛び込んだ。せいぜい腰くらいと思われた水深は優に私の背を越えていた。こうなったら突然の寒中水泳である。スーツ姿で革靴のまま、かばんを濡らさない様に右手を高く上げ、左手だけで20mを泳いだ。中学時代は水泳部、大学時代はヨット部に属していた甲斐があった。その店の2階に上がると同じく濡れた10名ほどの被災者が既に火にあたっていた。震えの止まらない私は服を脱がされ、その店の従業員ロッカーにあった服を与えられ、焚き火のすぐ前の席まで提供された。それから朝までは紙を燃やし続けて暖を取った。この店の5名ほどの従業員の方は地震後、帰宅もせずに、我々被災者の面倒を良く見てくれた。感謝のしようがない。